ビジネス便利屋のここだけの話 -9ページ目
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地獄の超ド根性セールスマン

今日は、私が出会った世にも恐ろしいセールスマンのお話をしましょう。と言ってもちょっと古い話です。

時は、昭和六十年代初頭、某銀行で営業マンをしていた私は、支店長から担当地域の新規開拓を厳命されました。

 新規開拓ってやったことある人はわかると思いますが、嫌なもんですよね。今もそうかもしれないけど、当時は飛び込み訪問の新規顧客開拓が王道でした。いわゆるドアツードアで顧客の呼び鈴を押して回る方法。ドアを開けてもらえるのはまだいいほうで、ほとんどの場合、インターフォンでガチャンです。

 当時、若くて負けず嫌いだった私は、何とか先輩を営業成績で追い抜いてやろうと密かに闘志を燃やしていました。だけど、どうやったらいいのか方法がわかりません。そんなとき、たまたま見た雑誌に、「日本一のトップセールスマン、怒涛の営業」とか言う講演会の広告が出ていました。開催日は日曜です。
こりゃ、もっけの幸いと申し込みました。

 講演会の当日、期待に胸を膨らませて参加しました。すごい天才的なノウハウがあって、「開け!! ゴマ」みたいな魔術のような言葉を使えば、お客さんは皆、ドアを開けてくれると思ったのです。ノートを用意し、講師の話は一言一句おろそかにしないぞと、ペンを握る手に力を込めて、身構えました。

講師は、五十年配の髪を短く刈り込んだおっさんでした。趣味の悪い派手な背広。フーテンの寅さんの目を大きくしたような顔で、私たちの前に立ち、大きな声で自己紹介を始めます。それが終わると、いきなり前列に座っていた若い男性を指差し、「あなたは、昼飯を食いますか?」と聞きました。いきなり大きな声で聞かれ、その若い男は、「はっ、はい」とおずおず首を縦に振りました。

「トップセールスマンになりたかったら、昼飯なんか食ってちゃダメです」

 

講師は、参加者を見回すと、大声で言い放ちました。参加者は皆、生唾ゴクリです。

 

「昼飯を食うとまず眠くなる。そして満ち足りた気分になる。そんな幸せな気分で営業なんかできますか。人間、飢餓状態で追い詰められたほうがいい仕事ができるんですよ」

(私は、地獄の餓鬼のようになった営業マンが、泣き叫びながら逃げ惑う人たちを追い回している姿を想像しました)

「それから、日曜・祭日も休んじゃダメです。特に元旦は、大抵の家のご主人は自宅にいるものです。営業は、年中無休。一日休めば、好調のリズムが崩れ、戻すのに一週間はかかります」
(ゲッ、正月から営業1? でもこの人なら、獅子舞いみたいな顔してるから縁起モノとして喜ばれるかもしれないぞ。でも普通の人が営業したら…。)私の額から汗が流れ始めました。

「しかし、深夜に訪問するとさすがに苦情がくることがあります」

 

 講師は、眉を寄せながら弱気な声を出しました。


(ふぅ。少しまともになってきたな)

「だから私は、夜の10時を過ぎるとなるべく訪問営業は差し控えます。その代わり、名刺とパンフレット。これを大体一日100件ぐらいのポストに投函してくる。それが終わって家に帰るのが、夜の12時ごろ。さすがに晩御飯は食べますよ。だけどストップウォッチで正確に測り10分ですまします。妻との会話もぴったり10分。風呂はすこしゆっくり入りたいので20分。そしてそのあとがやっと私の時間です」

 

( ……………………。)

講師はちょっと間をとって、ニャッと笑いながら参加者を見回しました。

「深夜、皆が寝静まってから、事務処理です。今日の戦果を振り返りながら独り、悦楽に浸る。至福のひと時ですよ。でもそう長くは浸っていられない。やはり寝ないと次の日に響きますからね。だから午前2時には寝て、三時間ぐらいの睡眠時間は確保する必要があります。それから一番もったいないのは通勤時間。前いた会社は遠かったので、勤め先から5分ぐらいのところにアパートを借りて、独りで住んでいました。それぐらいやらなきゃ、日本一にはなれません」

 

(ひぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ~。化け物じゃ~)

 

 

以上は20年ぐらい前の話ですが、今はこんなことを言う人、少なくなりましたね。要は訪問件数を多くして、顧客との接点を増やせってことだと思います。当時よく言われた言葉に、「100分の10の確率を信じよう」というのがあります。100軒まわっても、話を聞いてくれるのは10軒だけ。しかも90軒まわったあとの10軒が話を聞いてくれるのだと…。それにしても100軒まわって、10軒も話を聞いてくれる家があったとするなら、当時はいい時代でした。(笑)

 

それはともかく、今の時代も泥臭く走り回っている営業マンのほうが成績があがっているのではないでしょうか。今をときめくインターネット接続会社も、よく駅前で、テキヤのような感じで勧誘していますよね。最先端を行くIT企業も、営業だけはいまだにアナログなんだなと感じました。

 

しかし当時、この講演会に触発されて頑張って営業したものの、やっぱり長続きはしなかった。飛び込み訪問をして、迷惑そうな顔をされると、嫌な気分にさせちゃったな~と落ち込むのです。普通の人が、どんなに努力しても朝青龍やボブ・サップになれないのと同じ。

 

だけど、見ず知らずの人に自分をわかってもらうまでは大変だし、時間がかかるものです。あれからいろいろ研究して、自分なりの新規開拓の方法を作り出したのですが、どんな画期的な方法であっても、「超ド根性営業マンの気持ちの持ち方」がないと途中で挫折してしまうとわかりました。

 

そう思って、最近の自分を振り返ると、インサイドワークがうまくなりすぎてしまた気がする。便利屋の原点に立ち返らねばならないと気を引き締める今日この頃です。

 

牛丼クロニクル

男もすなるブログといふものを、便利屋もしてみむとてするなり…。 

 

ブログを始めるにあたって、さて、何から書き始めようかしらんと思いついたのが、上記のフレーズ。紀貫之の「土佐日記」でしたっけ。

 

それはそうと、生まれて始めてのブログ。さて、何から書き始めたらいいのだろう。私のオフィシャルホームページ、「ビジネス便利屋のよろず公開講座」は、結構かたい内容なので、ブログのほうは肩の力を抜いて書きたいですね。

 

…と思って、今ひらめいたのが牛丼。そう、現在、アメリカのBSE問題でゆれる牛丼です。実はここだけの話、日曜日を除いて金、土、日曜日を間に挟んで月、水、金曜日と松屋のキムチ牛めしばかり食べているのです。仕事柄、毎日都内を歩き回っているのですが、お昼、腹がすく時間になると必ず目の前に松屋のあの黄色い看板が目の前に現れる。というか、記憶のすみに松屋の位置がインプットされていて、無意識にそちらの方向へ足がむいているのかもしれません。

 

それにしても、あのキムチがいい!! 以前、「ためしてガッテン」で、日本人は、本物のキムチを食べていないと言っていましたが、あれは本場のキムチなのでしょうか。うまみ成分がたっぷり出ているという感じで…。でも、とくに松屋の肩を持つわけじゃありませんよ。言いたいこともあります。昔に比べて、生野菜の量が半分になったということ。やっぱり会社の規模が大きくなりすぎたからなのかなぁ。

 

 

思えば、私が牛丼と出合ったのは大学時代でした。当時、松屋はほとんどチェーン展開されておらず、渋谷のセンター街に、味噌汁が無料でついてくる牛丼屋が一軒あるといった印象だけでした。そのころは吉野家が、急速に店舗を拡大している時期で、普通盛りの値段が400円。それだけで、昼ごはんが食べられるなんて、「やす~い」と思ったものです。その後、280円まで値段が下がるなんて、当時誰が予想したでしょうか。

 

当時の店のレイアウトは、今とほとんど変わらなかったと思いますが、割り箸ではなく、再利用できる箸で、カウンターの上に易者の筮竹のように置かれていた記憶があります。学生時代は、週に1~2回は吉野家の牛丼を食べていましたね。もともと肉はあまり好きではないのですよ。でも、よく溶いたたまごをかけて、ショウガとともにかっ込む味は、400円というお金ではほかで味わえないものでした。

 

しかし、その吉野家に暗雲がたち始めます。1978年の終わりごろだったと思いますが、大学生だった私は、アルバイトの帰り、晩飯に牛丼を食べようと吉野家に立ち寄ります。まわりを見回すと、カウンターには私のほかに客がいません。まだ七時を少し過ぎた時間なのに、ですよ。嫌な予感がしました。少しして、私の前に置かれた牛丼を一目見て、目を見張りました。

 

に、肉がない…。

 

しかしよく見ると、銀シャリがやけに光沢があって、蛍光灯の光に照り映えている。少し茶色っぽいからたれはかかっているようだ。たまねぎも多少(2~3片)あるような。

 

どんぶりに顔を近づけてもっとよく見ると、光沢がある部分は全部脂身でした。肉の黒い部分がひとかけらもないのです。しかもそれさえ、ごはんの全面積からいったら、60パーセントもありません。

 

何だ、これは…。これは牛丼と呼べるのか!

 

と、店員を睨もうかと思いましたが、私も当時は若く、気が弱かったのです。 しかも店員もどんぶりをカウンターに置いたら、さっと厨房に逃げてしまったではありませんか。

 

どうしてだ。私がなにか店員の気に触ることでも言ったのか…。

 

そんな煩悶を繰り返しながら、脂身andたれ丼をかっ込みました。学生なので金もなく、おしんこや味噌汁を頼むというような贅沢はできません。

 

しかしその事件後も、行くどの店も同じような状態が続きます。いくら世間知らずの人間でも、おかしいと気づきますよね。そしてとうとう1980年に吉野家が倒産するという衝撃的なニュースが耳に飛び込んできました。急激な店舗展開に、人材と材料の供給が追いつかなかったのがその原因らしいです。

 

会社が倒産するということ、サービス業としての顧客満足がいったい何なのかを身をもって感じることができたのはその事件からかもしれません。こんな苦しい時代を乗り越えて、牛丼ファンとともに成長してきた吉野家には是非頑張ってほしい! 陰ながら応援しています。

 

その後も、牛丼には、その時代時代の色々な思い出がありました。いずれまた書いて、青春時代を振り返ってみたいな。

 

それにしても、最初からこんなにたくさん書いて、あとが続けられるのでしょうか。次回からは、肩に力をいれないでさらっといこう。

 

ところで、せっかく咲いた桜がほとんど散ってしまいました。今年は桜の咲いている時間がとても短かったような気がします。最後に、土曜日に撮ったうちの近所の公園の桜の写真を載せておこう。

 

桜の開花(もう散ってしまったけど…)とともにブログの開始です。

 

 

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