魅力ある上司とテゲの関係
昨日は、児玉源太郎のことばかり触れました。しかし大山巌も東郷平八郎も、プロフィールを追ってゆくと何でもできる万能型の人材なのですね。
しかし、トップについたとたん、高貴な「虚」を持った。大山巌は、児玉源太郎たちによって、マスタープランが作動し始めると、自らを虚にしたのです。 「戦争はどの辺であるのですか?」なんてとぼけて聞いていながら、すべて把握していたか、いや本当に知らないように努力したのかもしれませんね。
だから、たんにトップが何もわからず、すべて部下にまかせて何もしないというのはテゲではない。
また、トップが口を出さず、すべて任せられるような、私欲がなくかつ能力の高い部下がいなくても、テゲはできない。
司馬氏は、テゲであるべき人物は、人格に光がなければならないと言います。また人格は私心がないことが必要で、難に殉ずる精神と聡明さも必要だ、と。
もしそのトップと部下の「テゲの関係」が失敗すると大変なことになる。たとえば、太平洋戦争前の軍部。 徳と智謀のない参謀たちが、上司からテゲを受け、すべてを任されてから暴走し、日本を戦争へと駆り立ててしまった。
それでは現代の日本の職場で、高貴な「虚」、テゲは可能なのか。
う~ん。100%行うことはむずかしいでしょうね。どんなに、有能な部下がいて、彼に社長の印鑑やらなんやら全部渡して、自分は社長室に閉じこもる。しかし、たまには会議に出る。
そして役員の前で、「今期の売上げ数字が出たみたいだけど、黒字だったの? それとも赤字?」なんて言ったら、バラエティー番組のコントじゃありませんが、居並ぶ役員全員がズッコケるかも。
社長が、「およびでない? こりゃまた失礼しました」と植木等みたいにステテコに腹巻姿で引っ込んでも全然受けない。
と言って、派閥が好きで、重箱のすみをつつくように細かい指示を出して部下を萎縮させるような山県有朋型トップも困ります。能力に自信を持つ部下が、能力を正当に評価されない、能力を発揮できないとふてくされたり、やめたりするでしょう。
では、どうあるべきなのか。
今のトップは、やはり能吏的な部分も必要だと思います。
しかし100%それでは、部下が育たないし、息も詰まる。ほどよいテゲの部分が必要だと思うのですよ。もちろん、天然のテゲは、それだけで人間的な魅力はあるのでしょうが、トップがそれでは心もとない。
理想はやはり児玉源太郎。極め付きの有能さでありながら、テゲを演じることのできる人物。こういう人は、ホントにすごいと思いますよ。
たとえば、歴史上の石田三成は、能吏としては天下無双の才能を持っていたのでしょう。いわゆる東大法学部を首席で卒業し、国家公務員の上級職試験にトップでうかるような才能。しかし、彼にはテゲが乏しかった。味方につくと言った大名が寝返った大きな理由として、彼に人間的な魅力がなかったと言われております。
児玉源太郎は、何度も書きますが、テゲの本質がわかっていた。トップはどう振舞ったら、部下の能力が一番発揮できるのか。そして、自分がテゲになってもいい部下か、悪い部下か。その場その場の状況で、トップとして最適な人間を演じるべく、自分を変えて行ったのではないでしょうか。
このように経営の現場で、戦略的にテゲを演じることができる人はそれほど多くない。天然のテゲを持ち、部下から愛されている経営者はいますが、これは逆に言うと「おおざっぱ」を部下が面白がっているだけかもしれません。
私のまわりのトップで、児玉源太郎のようなテゲを持っているのは、以前お話しました横浜の病院の院長先生でしょうか。この先生は、手術の名人と言われている人ですが、ビジネスにも並々ならない才能を持っています。
特別に財務の勉強をしなかったと思うのですが、計数にも明るい。自分の病院の問題点、改善すべき点について常にどうしたらいいかと考えている人ですね。
本来なら、それだけで細かい、重箱のすみをつつく山県有朋型のトップになってもおかしくない。しかし、患者さんや部下、出入りの業者までから愛されているのは、テゲの部分があるからです。しかし、天然のテゲではない。ちゃんと計算して、テゲでいくところ、能吏型でいくところと使い分けてもいるのですよ。
こういうタイプのトップは、バリバリに仕事ができるタイプのトップよりすごいと思います。また明るく、気さくだから、その先生が診察担当の日は、病院の待合室からあふれるぐらい患者さんが集まるのです。
このあたりを具体的に描写しますと長くなりますので、今日はこの辺で。 ところで読者の皆様、テゲをうまく使い分けられるトップは、まわりにいらっしゃいますか?