「坂の上の雲」にみる上司の魅力 | ビジネス便利屋のここだけの話

「坂の上の雲」にみる上司の魅力

 昨日は少し趣向を変えて、『脳卒中はどんな病気か。医師と女子高生の会話から』というテーマでお送りしました。


 さっそくコメントやトラックバックをいただき、とても感謝しております。いずれ脳卒中をテーマに新たなブログを立ち上げたいと思いますので、皆様、お読みいただければうれしいです。

 取り急ぎ、お礼まで。


 感謝しつつ、今日はいつものビジネスの話題に戻りたいと思います。先週からのテーマは、「上司」としての人間的魅力について。


 ここで誤解があってはいけないと思いますので先に書きますが、この場合の「上司」は、一軍の将としての上司に限定したいと思います。これから書くことは、中間管理職の上司には当てはまらないと思いますので。


 係長や主任クラス、また担当部長や担当課長などスタッフとして働く人たちは、上司としての仕事のほかに個別の仕事も持ち、一担当者としての側面も持っているからです。理由は、これからの文章をお読みいただければ、ご理解いただけると思います。


 ところで先週から何度も触れています司馬遼太郎の言う「高貴な虚」について。


 虚とは、空あるいは無と同じ意味。上に立つ人が、空あるいは無の境地でいたら、下で働く人たちは困るんじゃないか。普通、そう思ってしまいますよね。


 大山巌や東郷平八郎の両元帥は、「高貴な虚」を持っていたと司馬氏は指摘します。あらためて言うまでもありませんが、虚だけではない。「高貴な虚」です。


 その高貴。どの部分が高貴なのか。  この二人は、同じ薩摩出身なんですよね。西郷隆盛から薫陶を受けたという点も同じ。


 その薩摩に大概という方言があるらしい。ちなみに読み方は、たいがいというのでなくテゲというのだそうな。


「将たるものは、下の者にテゲにいっておく」という使い方をする。上の者は大方針のあらましを言うだけでこまごました指図はしないという意味。そしてそういう態度をテゲと言った。


 これは薩摩の旧藩時代、上級武士にとって配下を統治するための倫理用語というほど大事な言葉だったそうです。


 「坂の上の雲」を読み、彼らの「上司」としての人間的な魅力を感じたルーツは、どうやらその辺にあるらしい。


 彼らはマスタープランを明示したあとは、部署部署をその責任者に任せてしまい、自身は精神的な(高貴な)象徴性を保つだけで終始する。


 「坂の上の雲」には、その象徴的な場面が鮮やかに描かれています。もう十五年以上前に読んだ本なので、細かなところは忘れていますが、日露戦争当時、中国本土で日本とロシアが激しい戦闘を繰り返しているシーン。


 日本はかなり厳しい戦況に追い込まれ、総参謀長の児玉源太郎を中心に作戦会議が開かれる。しかし居並ぶ将校たちは、前途に光が見出せず暗い表情。ビリビリした緊張感だけが漂っています。


 そこへ別室で休んでいた総司令官の大山巌が、のんびりした顔で会議室に現れ、児玉源太郎に一言。  その言葉がどんなものであったかは忘れました。ガクッ (←すいません)


 押入れから本を出して調べればいいのですが、押入れを開けたとたん、どっと中のものがなだれ込んできて、圧死する恐れがあるのです。申し訳ございませんが、気になる方はお調べください。


 ただ、「児玉さん。今日はどの辺で戦争があるんですか?」みたいな言葉だったと思います。


 総司令官が、戦況はおろか、どこで戦闘が行われているかすら知らない。ホントは、まずいことなのかもしれませんが、現場で戦うのは総司令官ではない。また作戦をたてるのも総司令官の仕事ではない。


 事実、総参謀長の児玉源太郎はじめ居並ぶ将校たちは、そんな大山総司令官を見て、なんとか不利な状況を打開し、彼のためにも頑張らねばならないと決意をあらたにするのでした。


 児玉は愛着と尊敬をこめて、自分の上司である大山巌を「ガマ坊」と言う。


「わしはガマ坊をかついでゆく」と言って、総参謀長の児玉は、大山を上司にしたのでした。いわば下が上を選んだのですな。


 ここで、大山巌とはまったく別のタイプの上司が小説に登場します。彼らを対比してみると面白い。下から見て、魅力ある上司か、そうでないか、典型的なパターンの違いがわかるのです。


 今日はまた長くなりました。この続きは次回。