「上司」としての人間的魅力とは
「人をやる気にさせる法」というテーマでは、ホント、数限りないビジネス書を読みました。
人をやる気にさせる方法論で、実際現場で使ってみて役立った方法はたくさんあります。たくさんありすぎて、体系的にどういう形で書いたらわかりやすいだろうかと今なお迷っているぐらい。
だからそちらの点については、あとでお話しすることにして、昨日ブログに書きましたもう一方、部下が自然についていきたくなるような「上司」の人間的魅力について考えてみたいと思います。
ところで話がちょっと横にそれるかもしれませんが、日本の会社ほど、実際の仕事よりも、上に立つ人間の器が問われる組織はないのではないかと思うんですよ。
欧米の会社のことはよくわかりませんが、わりと個人プレイで成果をあげるということに関して、正当に評価してくれるのではないかという感じがしています。
もちろん、日本の会社だからといって、人並みはずれた成果をあげた社員が高く評価されることは間違いありません。個人技で成果をあげたからといって、会社の収益に貢献しているのは間違いないのですから。
しかし、意外と上の人の評価が分かれることがある。組織人という観点から見た場合、いくら個人技で頑張ったとしても、意外と評価が低いケースが多いと言っていいでしょう。
「彼は、一担当者としては素晴らしい成果をあげている。だけどスタンドプレイも結構多い。将来、部下を持つ身分になったときに、彼は果たして部下を育ててゆけるのか。部下が彼についてゆくのか」
…なんて、難色を示す上司は必ずいるんじゃないですか。
若いうちは一担当者として、華々しい成果をあげるのは文句のつけようがない。しかし将来、部下を持ち、人を束ねてゆく立場になったらどうなのか。プロ野球の一流選手が必ずしも名監督にはならないとよく言われます。 人の上に立ち、人をやる気にさせながら引っ張ってゆく能力が、一定以上の年代になると事務能力や営業能力以上に問われるような気がする。
そこで、昨日のブログに書きました、上司としての魅力。
高い事務処理能力や営業能力は欲しいけど、神様が自分にひとつだけ欲しい能力をやる! と言われたら、「上司」として人を惹きつける人間的魅力が欲しいと答えるでしょうね。
だって、それはどんなに努力しても一朝一夕に身に付けられるものではないですから。一流大学を出て、一流企業に就職し、みっちり研修を受け、仕上げにビジネススクールでも通えば、高いビジネススキルは身につくでしょう。営業だって、得手不得手はあるかもしれませんが、努力と経験で何とかなる部分はある。 しかし、「上司」として人を惹きつける人間的魅力だけは、どんなにいい大学やビジネススクールを出ても、なんとかならないばかりか、かえって逆に働くケースもある。
努力や経験に関しては否定しませんが、どんなに努力しても上司としての魅力がないまま定年を迎える人たちは一杯いるんじゃないでしょうか。
「上司」としての人間的魅力が欲しいと思って、頑張れば頑張るほど遠くへいってしまうような気もする。 そんな手を伸ばせば届きそうでいて、手を伸ばそうとするとするりと逃げていってしまうものに、解決のヒントを与えてくれたのが、昨日書いた司馬遼太郎の指摘する「高貴な虚」でした。
それは…と、本題に行こうと思いましたが、今日は長くなってしまいました。
いつもながらの前置きが長すぎて、本論へ進まない癖
別に引っ張ろうとと思っているわけではないのですが、司馬遼太郎の「この国のかたち」という本の中で、私が昔から理論立てて知りたかったことがあまりにストレートに記載されていましたので、ついうれしくなって…。
すいません。